2010年07月15日

瑠璃光寺五重塔の誕生

 国宝の瑠璃光寺五重塔は大内文化のシンポルで、私ども山口市民の誇りです。
 おおすみ歴史美術館を訪れる県外からの皆さんは、歴史や文化に関心のある方がほとんどですから、五重塔や常栄寺雪舟庭についてのご質問も少なくありません。
 先日来館された方からは「完成は室町中期の嘉吉2年(1442)と聞くが、その根拠は棟札(むなふだ)ですか」というお尋ねがありました。
 棟札というのは「建物の建立や修理の際に棟木に打ち付けたり、屋根裏に納めたりする木札」(日本史用語辞典)のことです。
 以下、私のつたない知識ですが、お答えしましょう。まず、この五重塔は戦死した大内第25代義弘の菩提を弔うため、弟で第26代盛見が建てたものですが、棟札は見つからず、いつ完成したのかはよくわかりませんでした。

 しかし、大正4年(1915)の解体修理の時に5層目北側の軒下の木組みの一つ、巻斗(まきと)から墨で記された落書が見つかりました。
 「嘉吉二年二月六日 此のふでぬし廿七 年みつのえいぬ」とあります。
 この塔の建立にかかわった27歳の大工さんが、未来へのメッセージとして記したものでしょうか。名前はなく、花押(かおう)(印鑑代わりに書いた印)だけです。
 自分も加わって、この31.2メートルの優美な塔ができた。大内家の象徴だし、私も誇らしい。いつの日か、塔の修理が行われるだろう。その時この巻斗の私のサインが見つかるかも知れない――そんな思いで記したのでしょうか。

 「落書きが史実になったわけですね」と、ご質問者にお答えしました。さて皆さんに何かのご参考になったでしょうか。ちなみにこの巻斗は瑠璃光寺資料館で公開されています。


江戸康尹(えど・やすゆき)
(おおすみ歴史美術館)

2010年03月10日

「ふるさと8人の総理の書」について

 「山口の先人の足跡をたどる」をテーマとしている当館は、3月3日から「ふるさと8人の総理の書」と題した企画展を開いています。
内閣総理大臣といえば、日本の政治の頂点に立つ人ですが、山口県からは初代総理の伊藤博文をはじめ、山県有朋、桂 太郎、寺内正毅、田中義一、岸 信介、佐藤栄作、そして安倍晋三氏と、実に8人を出しています。またその在任期間は合わせて36年にのぼります。
お国自慢になるかも知れませんが、近現代の日本の政治を考える上で長州―山口県は大きな役割を果たしてきたといえるでしょう。
昨年末に安倍晋三元総理から半切の書を頂き、当館に山口県出身の全総理の書がそろいました。ちなみに安倍氏の書は「楽在人和(たのしみは人の和にあり)」です。
「書は人なり」と申しますが、総理たちの書を通じて、皆様に何らかのメッセージが伝われば幸いです。


おおすみ歴史美術館・江戸康尹

2010年03月02日

企画展『ふるさと8人の総理の書』へおいでませ

8人の総理の書.JPG
おおすみ歴史美術館ではこの度、山口商工会議所や山口市が力を入れている『山口お宝展』に今年も協賛し、企画展「ふるさと8人の総理の書」を開催いたします。

この企画展では、昨年12月に安倍晋三元総理から「楽在人和(たのしみは人の和にあり)」と記された書が寄贈されたことを契機に、初代内閣総理大臣・伊藤博文をはじめ、山県有朋、桂 太郎、寺内正毅、田中義一、岸信介、佐藤栄作、安倍晋三元総理まで山口県出身の8人全員の書(掛軸、扁額)を展示しております。
また、常設の刀剣、長州つば等も展示しております。

山口・湯田温泉へお越しの際は、ぜひご来館、ご高覧いただきますようご案内申し上げます。

[展覧会名] 山口お宝展協賛
        企画展『ふるさと8人の総理の書』

[展示内容] 1.初代内閣総理大臣・伊藤博文をはじめ、山県有朋、桂 太郎、寺内正毅、田中義一、岸信介、佐藤栄作、安倍晋三元総理まで山口県出身の8人全員の書を展示。

        2.常設展の刀剣、長州つば等も展示

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2010年01月03日

寅(とら)の萩焼香合展

 今年は干支(えと)では寅(とら)の年。寅は「動く」という意味だそうですが、ご存知のように動物では「虎」を充てています。
おおすみ歴史美術館では、1月2日から2月11日まで新春企画展「寅の萩焼香合と茶陶展」を開いています。
香合(こうごう)とは「香を入れるふたつきの容器」で、茶道具の一つですが、素材もデザインもさまざまです。干支の動物をテーマとした香合もその一つで、多くの陶芸家が昨年の暮れにつくります。いわば新春を告げる使者ですね。数点の香合の写真をごらん頂きましょう。
大和 保男 氏.jpg
野坂 康起 氏.jpg
波多野 善蔵 氏.jpg
岡田 裕 氏.jpg

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2009年11月01日

日本大学の創立者・山田顕義が遺したもの

山田顕義 写真.jpg
        (↑) 右は山田書の額、左は桑山碑拓本 〜山口市のホテルで〜


 山田顕義(あきよし)という人をご存知ですか。弘化元年(1844)萩生まれの長州藩士で松下村塾に学び、明治期に軍人、政治家として活躍し、その間に日本大学を創立しました。没年は明治25年(1892)で49歳でした。
 当館には「開拓萬古之心胸」と書かれた山田の扁額などがありますが、今年10月、日本大学校友会(桜門会山口)が山口市内のホテルで総会を開いた時、ご要望に応えて会場に数点を展示しました。学祖ゆかりの資料とあって大変好評だったようで、当館としても嬉しい次第です。
 さて山田は書も巧み、詩文も優れています。展示の額は山田の書ですが、もう1つの桑山(くわのやま)招魂場碑の拓本は山田の撰文―つまり碑文をつくったもので、書は岡守節という方です。
 今少しこの拓本について説明しましょう。拓本とは石碑などに刻まれた文字や文様を紙に写しとったものです。採取方法はいくつかありますが、碑の上に塗らした紙を貼り、墨汁をつけたタンポで叩くやり方が一般的です。
 また桑山というのは防府市にある丘で、その山頂に慶応2年(1866)、殉国の士を弔う招魂場がつくられました。現在の防府市護国神社です。
 招魂場碑は明治25年(1892)に殉国者の功績をたたえるために建立された自然石の碑で、縦3.2メートル、横1.7メートルもある大きいものです。建立式には山田をはじめ明治の高官たちが出席したと伝えられています。
 さてこの巨大な拓本がいつ、どのように作られたのか、なぜ当館にあるかは不明です。というのは当館創立者の大隅健一翁は昨年亡くなられ、その没後、ご自宅の一隅から掛軸仕立てのこの拓本が見つかったもので、翁にお聞きする術もありません。
 ともあれ山田撰文の碑の拓本は当館にあります。そして碑そのものは桑山の北隅に現存しているのですが、戦後の混乱の中で忘れられたというべきでしょうか、うっそうとした雑木林や雑草に囲まれて見えにくく、訪れる人もほとんど無いようです。
 山田顕義ゆかりの碑は1世紀を経た今も偉容を誇っています。できれば雑木や雑草をとりはらい、再び姿を見せてほしいものです。


おおすみ歴史美術館・江戸康尹

2009年10月01日

没後100年の伊藤博文さん

 山口県出身の政治家の中でも大和町生まれの伊藤博文は維新の志士であり、初代総理大臣であり、また明治42年(1909)にハルビンで暗殺された悲劇の主人公としても広く知られています。しかし大きな功績にもかかわらず世評は必ずしも正当とは言えないようです。
 その伊藤さんは今年が没後100年とあって、県内の歴史系ミュージアムではさまざまの企画展を開いています。
 私は萩博物館の「伊藤博文とその時代展」(11月18日まで)を拝見しましたが、山口市歴史民俗資料館では「十朋亭と維新の志士たち」(11月29日まで)大和町の伊藤公資料館では「遺墨遺品展」(11月29日まで)下関市立長府博物館は「幕末・明治の下関」(11月1日まで)と、いずれも伊藤博文を中心とした企画展を開いています。ご関心のある方はお訪ね下さい。

 ところで「山口の先人の足跡をたどる」をモットーとする私どものおおすみ歴史美術館は初秋を迎えて常設展の展示替えを行い、その中心に伊藤の書2点と珍しい写真、萩で9月に発行された伊藤の記念切手などを展示しました。どうぞお出かけ下さい。
 また9月13日に萩市の主催で「伊藤博文没後100年記念シンポジュウム」が開催されました。京都大学教授の伊藤之雄さん、作家の松本健一さんら4氏によるシンポジュウムは伊藤を近代日本の基礎づくり、憲法制定と議会制の樹立等の面で高く評価し、その実像を明らかにし、いわれなき風聞の虚像を退けました。
 確実な史料に基づく各氏の伊藤像の展開に私は「目からウロコが落ちる」思いでした。
 全くの私見ですが、私は維新の変革期の伊藤総理と内閣発足1ヶ月を過ぎた鳩山由紀夫総理を比較して楽しんでいます。国際舞台で臆せず、英語でスピーチするあたり似かよっていると思いますが、いかがでしょうか。
 ともあれ伊藤に限らず、私たちは長州の群像について勉強し、理解したいものです。他県の方に一席ぶつくらいの力を持ちたいものですね。

おおすみ歴史美術館・江戸康尹

2009年03月27日

雲谷派展へどうぞ

おおすみ歴史美術館では今、雲谷派の絵画をご覧頂く展覧会を開いています。会期は3月20日から4月19日までです。
雲谷派について手短にご説明しましょう。もっとも、専門家の先生方の解説の受売りですが。
大内時代に画聖、雪舟が山口で活躍していたことはご存知ですね。大内の殿様から頂いたアトリエ・雲谷庵に住み、現在国宝になっている「山水長巻」などの傑作を描きました。
雪舟が世を去ったのは約500年前ですが、その画風を受け継いだ画家集団が雲谷派で、始祖は雲谷等顔(1547-1618)です。
本名、原 直治という武士ですが、毛利輝元に画家としての力量を認められ、文禄2年(1593)ごろ雲谷庵を拝領し、毛利藩の御用絵師としてスタートします。
同派をさらに発展させたのが、二代目の等益(1591-1644)です。
そして、宗家だけでなく、たくさんの分家、弟子家が生まれ、幕末に至るまで活躍しました。日本の近代絵画史上、雲谷派は狩野派と並ぶ一大流派といわれます。今に伝わるその絵は、私たち山口県民が誇る文化遺産ですね。
雲谷派の作品のメッカは山口県立美術館で、優れた作品をたくさん収蔵し、折に触れて展覧会を開催しています。当館の展示はささやかなものですが、民間の一つのコレクションとしてご覧ください。
展示作品は伝等顔の「鷹図」、伝等的の「山水図屏風」など11点で、うち等的の「文殊菩薩像図」と等璠の「墨竹図」は市民のご提供です。
等鶴の「漁村夕照図」や等潤の「太公望図」は、かって山口県立美術館で開かれた特別展「雲谷派の糸譜展」に出品したことがあります。
その図録に「漁村夕照図は、のどかな漁村の光景が行体風の柔らかい筆致で描かれている。」「太公望図は和様化の進んだ幕末期雲谷派人物画の典型的作例」などと評されています。展示作品は、淡彩の人物画や、墨画の山水画が多いのですが、雲谷派の美の一端にふれてくだされば幸いです。

おおすみ歴史美術館・江戸康尹