日本大学の創立者・山田顕義が遺したもの

(↑) 右は山田書の額、左は桑山碑拓本 〜山口市のホテルで〜
山田顕義(あきよし)という人をご存知ですか。弘化元年(1844)萩生まれの長州藩士で松下村塾に学び、明治期に軍人、政治家として活躍し、その間に日本大学を創立しました。没年は明治25年(1892)で49歳でした。
当館には「開拓萬古之心胸」と書かれた山田の扁額などがありますが、今年10月、日本大学校友会(桜門会山口)が山口市内のホテルで総会を開いた時、ご要望に応えて会場に数点を展示しました。学祖ゆかりの資料とあって大変好評だったようで、当館としても嬉しい次第です。
さて山田は書も巧み、詩文も優れています。展示の額は山田の書ですが、もう1つの桑山(くわのやま)招魂場碑の拓本は山田の撰文―つまり碑文をつくったもので、書は岡守節という方です。
今少しこの拓本について説明しましょう。拓本とは石碑などに刻まれた文字や文様を紙に写しとったものです。採取方法はいくつかありますが、碑の上に塗らした紙を貼り、墨汁をつけたタンポで叩くやり方が一般的です。
また桑山というのは防府市にある丘で、その山頂に慶応2年(1866)、殉国の士を弔う招魂場がつくられました。現在の防府市護国神社です。
招魂場碑は明治25年(1892)に殉国者の功績をたたえるために建立された自然石の碑で、縦3.2メートル、横1.7メートルもある大きいものです。建立式には山田をはじめ明治の高官たちが出席したと伝えられています。
さてこの巨大な拓本がいつ、どのように作られたのか、なぜ当館にあるかは不明です。というのは当館創立者の大隅健一翁は昨年亡くなられ、その没後、ご自宅の一隅から掛軸仕立てのこの拓本が見つかったもので、翁にお聞きする術もありません。
ともあれ山田撰文の碑の拓本は当館にあります。そして碑そのものは桑山の北隅に現存しているのですが、戦後の混乱の中で忘れられたというべきでしょうか、うっそうとした雑木林や雑草に囲まれて見えにくく、訪れる人もほとんど無いようです。
山田顕義ゆかりの碑は1世紀を経た今も偉容を誇っています。できれば雑木や雑草をとりはらい、再び姿を見せてほしいものです。
おおすみ歴史美術館・江戸康尹